2020/06/17 19:36

2002年秋

”なむ たすけ たまえ てんりおの みこと
なむ たすけ たまえ てんりおの みこと・・・”

暗い。真っくらだ。
身体が沈んでいく。
ここは水の中なのかな。
真っ暗で静かな水の中。
昔どこかで、何かの本で読んだ海の底。深海。
ここは深海なのかな。身体に力が入らない。ただ静かに沈んでいく。
どうしてこんなところに来てしまったのだろう。
私は水が嫌い。
子供の頃からプールも、お風呂も不快に感じた。
他の子供がきゃっきゃと騒ぎ、大人もつられて騒ぎ、
水鉄砲や水風船を楽しそうに投げてくる。
不快だ。泣きたくなる。水で遊ぶのが何が楽しい。
怖くないのかな。
お風呂も、身体を清潔にしないと臭ったり、痒くなったりするから、頑張って入った。
シャワーのハンドルを捻れば飛び出す最初の水しぶきが怖くて、ハンドルを回すのに少しだけ、
時間がかかった。
お風呂の場合は両足をつけるまでは何故か平気だったけど、その後に手やお尻をつけるのに抵抗があった。
つかると、全身に鳥肌がたった。
でも、身体を洗い出せばもうお風呂なんて何も怖くなかった。
水に初めて触れる瞬間だけが、苦手だった。

暗い海の底に私が今沈んでいるとしたら、おそらくクジラが出るだろう。
私はクジラも嫌いだ。怖いのだ。恐怖でしかないのだ。
どうして冷たい海の中で生きていけるの?あの巨体にしがみ付き生きる魚や虫が私の気に障る。
一番嫌いなのは、一番怖いのは、クジラの目だ。
クジラの目を見ると苦しくなる。泣きたくなる、逃げ出したくなる。
怖い。怖い怖い怖い。
息が苦しい。息が出来ない。
身体が全く動かせない。目を開けなきゃ。目を開けたい。

”なむ たすけ たまえ てんりお の みこと”

上から、遠くから声が聞こえる。
誰の声だろう。
お腹が、重たい。
苦しい。目を開けたい。

”なむ たすけ たまえ てんりお の みこと・
息をしてくれ、サト。 目をあけてくれ ”


お父さんの声?
お父さんの声ってこんなに弱弱しかったっけ。
かすれた声が震えている。
お父さん、泣いてるの?どこにいるの?お父さん!!!

何やらガヤガヤしている。
他にも沢山の声や機械音がする。
そういえば、なんだか瞼の裏が明るい。明るすぎて気持ち悪い。
目を開けたいのに、開けれない。
手足の感覚もない。
お腹が重たい、

知らない男の声がしたと思ったら、急に左瞼をこじ開けられた。
痛いほどの鋭い光が入ってきて私は思いっきり息を吐いた。
両目をゆっくり開けた。息がまだ苦しい。お腹が重たい。
頭?お父さんの後頭部が見えた。
お父さんの頭が私の胸元に乗っていた。
泣いていた。泣きながら、神様に助けをずっと呼んでいたのだろうか。

”意識が戻ったみたいだね。こっちを向いてくれる?”
救急隊員の言葉でお父さんは私の顔を見た。そして涙目で笑った。
このお父さんの顔を私は一生忘れないだろうなと、ぼんやり思った。
目を開けているだけでも疲れた。
身体は相変わらずほとんど感覚がない。視点も合わない。
オマの声や、お姉ちゃんの声、義理の兄の声。
オマは韓国語で話していた。そして韓国語で言葉を返す低い男の声。
あー。あの人の名前、なんだっけ。

”意識が戻り、呼吸も安定してますが、目の瞳孔の開きに異常があります。
この子は薬物を使用しましたか?”

救急隊員が厳しい口調で家族に質問した。

”薬物だなんて!この子はしない!”
お父さんは呆れた口調で言った。

オマは韓国語で更に強い口調で韓国人の男に何か叫んでいる。
男は低い声を震わせながら答えた。

”市販の薬が・・”

あー。疲れた。
目が、もう閉まる。
私はまた、深海へと沈む。