2020/06/18 11:26

1999年夏

”マミーね、サトちゃんを空港まで送ってあげれないの。”母が言った。

”どうして?”不思議に思った私はとっさに読んでいた本ヲ閉じて母ヲ見た。

”その日はパートがどうしても休めなくて。でも!時間ぎりぎりまで、途中まで違う車だけど、お見送りに行くからね!”

”ふーん”と私は軽く返事をして読みかけの本をまた開いた。どこまで読んだっけ。
母は最近二番目の姉が働いていた日本食レストランで一緒に働きだしたばかりだった。
父が自営業だから、経理など、出来る仕事は母が手伝ってはいたが、
ちょっと前までは日本のビデオレンタル屋さんでパートをしていた。
なんであんな最高な仕事を辞めてしまったんだろうと、私は思った。
学校が休みで母が仕事の日は一緒について行っていた。
日本のビデオレンタル屋さんはその名の通り、
日本でビデオに録画したテレビ番組やドラマ、映画などをレンタルできるお店。
大体日本で放送されて一週間から二週間遅れでビデオになって、
私たちアメリカに住んでる者がレンタルして見れる仕組みだ。
今思うと、法律に触れないのか?疑問でしかない。
母の仕事についていけば一日中好きなビデオを見る事ができた。
母が店内で働いている間は裏の部屋で宿題をしたり、持ってきたおもちゃで遊んだり。
お菓子を食べたり、母が作ってくれたお弁当を母と食べたり。
その間は見たいビデオをずっと流していられる。

家の中では、父と母と、母方の祖母が日本語を話し、
私たち子供たちにも日本語で話しかけた。
3人の日本語はなんとなく理解できたけど、わからない単語の方が多かった。
姉たちも、私も3人が話す日本語と英語のミックスを聞き、返事は英語で返していた。
外に出れば全てが英語の世界だから仕方がない事。
家で見るテレビももちろん英語だったけど、私たちの家の廊下には長いビデオラックがあり、
そこにはびっしりと日本のビデオが詰まっていた。
日本に住む、母の兄、私の叔父が録画して定期的に送ってくれていたビデオたち。
それが私たち家族の楽しみであり、宝物だった。
特に父と母と祖母にとっては、生まれ育った国を遠く離れて、家族と離れ離れで寂しかっただろうと、
今の私なら良くわかる。
3人にとっては、叔父が送ってくれたビデオ達が支えであり、母国との繋がりになっていた。

当時、何を言っているのか、殆ど理解はしていなかったけど、
私はドリフタ―ズやだいじょぶだ、バカ殿様、カトちゃんけんちゃんの探偵事務所にハマった。
志村けんは、私をどんな時でも笑わす事が出来た、神様でした。