2020/06/22 10:16

1999年夏

私は14回目の誕生日は迎え、この夏は約2ヵ月間日本で過ごすことになっていた。
アメリカの夏休みは6月~9月頭あたりまで、約3カ月ある。
お金や時間に余裕がある親はこの期間に子供たちを連れ、世界を見に旅行へ行ったり、
別荘で過ごしたりなどして家族愛を育む絶好はサマーバケーションだが、
殆どの子供たちは家でかなりの時間を持て余す。
日本みたいに<夏休みの宿題>みたいなものもなかった。
私にとっては沢山の人で溢れかえる学校に行かなくていいだけで天国でした。
思い出せる限り、私は人が沢山いる場所が生まれながら苦手でした。
幼稚園も、小学校も、中学校も出来た「友達」はただ一人だったし。
アメリカでは高校まで義務教育。住んでいる住所で幼稚園~高校までどこに所属するのかが決まる。
私は居たのはCentennial District.
だから、引っ越しをしない限り、幼稚園~高校まで学校での顔ぶれは変わらない。
私は居た地区、センテニアルでは小学校が6年間、中学が2年間、高校が4年間。
14になった6月は、私は中学を卒業した。
やっとの思いでなんとかここまで学校生活を乗り越えてこれた。
集団生活、行動がとても苦痛な上、
私はアメリカ国籍だが、血は日本人。
当然顔も、体格も、肌の色も、髪も目の色だってアジア人に部類される。

幼稚園の頃、体育の時間に”仲間分け遊び”みたいなのがあった。
先生が”今日の靴が白の人!””今日の服に緑が入っている人!”など、
先生が言った事に当てはまる人はグループに入る。ただそれだけのゲーム。
だけど、ある日先生が
”髪の毛がブロンド(金髪)の人!”、と髪の毛の色を言い出し、その次に
”目の色が青の人!””目の色がグリーンの人!”と、目の色を言い出した。

私の髪の色は”黒”だったから、髪の毛の色の時は他にも黒髪の子達は居た。
黒人の子、メキシカンの子、私みたいなアジア人の子。

しかし、先生が”目の色が茶色の人!”と言った後、

私だけがぽツンとたったままでした。
先生の視線も、子供たちの視線も全部私に向けられていて、私は無表情だったけど、頭の中は混乱していた。

先生が”どうしたの?あなたの目の色は何色?”と聞いてきた。
私は、わからなかった。
自分の目は黒だと思っていた。

”黒。私の目の色は黒。”
私は小声で答えた。
子供たちからクスクスと笑う声が聞こえた。

”あなたの目の色は茶色よ。茶色グループに入ってね”と先生に言われて、私は指示に従った。

この日からしばらく私は、”黒眼の子”とからかわれた。
そして体育の時間が怖くなった。

なぜ生まれ持ったモノで分類されないといけないのか。
4-5才児にはそんな事よりも、
自分の(色)でさえまだわからないのだ。


私の目の色は黒じゃなかったの。
皆は茶色だよ、と当たり前のように笑った。

私は、ナニイロなの。