2020/06/24 09:51

私の母という人①

確かな事と、不確かな事。
私は、母を想う時、記憶に目が存在するなら、その目に膜が張っている状態に近い感覚。
何が真実で、何が人の噂で、何が妄想で、何が夢なのか。
母から聞かされた事、家族から聞かされた事、私の勝手な妄想や幻想、夢に見た母。

母が私の手を離し、側から居なくなってもう21年がたってしまった。
だから、仕方がない事なのどろう。無理もないだろう。
人の記憶なんてそんなものだろう。

確かな事は、母は午の年に日本の関東地方で生まれた。
4人兄弟の末っ子だった。

記憶の中の母も、写真の中の母も、いつも美しかった。
細くて、肌が白くて、顔が小さくて、目がクリっとしていた。
天然パーマも上手にお手入れをして、毎日お化粧をして、お肌のお手入れをしていた。
眼鏡も掛けていた。
時々つけた赤い口紅が、子供の私には本当に美しくて、惚れ惚れとした。
私は母みたいになりたかった。でも、私は父似だった。
3人姉妹で、姉二人は赤ちゃんの頃から”お母さん似だね”と言われていた。
特に、真ん中の姉は、母にとても良く似ていた。
奇麗な顔も、華奢で白い身体も、性格も良く似ていた。

母の生まれた環境や育った環境は、私の中の不確かなモノになっていく。
けして恵まれた環境ではなかっただろう。裕福でもなかっただろう。

私は母方の祖父を知らない。
名前も、顔も。未だに知らない。
母も、お祖母ちゃんも、父も、祖父の話をあまりしてくれなかった。
私も、子供ながら、あまり聞いてはいけないと思っていたし。
何より、聞けば母の目がわかり易く曇るからだ。

母の確かな記憶。
美しい女性だったけど、いつも不安定だった。
精神が常にピンっと張ってすれすれの臭いがした。
父と出逢い、生まれつき使命を持った父について、
アメリカに渡った母は、元々ピンっと張った精神が幾度も幾度も試され、
真面目だった母は一生懸命、精一杯頑張って乗り越えようとした。
でも、誰にだって、自分だけの限界がある。
人の限界地点と自分の限界地点は一緒ではないし、比べるものではない。
母はとても頑張った。
一緒に暮らした14年間、私にとって、本当に良いお母さんだったよ。