2020/06/25 09:12

1999年夏

日本へ出発する朝は慌ただしく、
楽しみと不安で昨夜は一睡もできなったが、
私は元気に朝ごはんを食べていた。

”もう入れるものはないか?”と神殿の方から父の声が聞こえた。
父は我が家の荷作り名人。スーツケースを詰めるのは父のお仕事。
初めは皆自分でやるんだけど、途中から思うように入らなくなったりするので、
父がまた全部出して、”最初にこれを入れないと入らないだろう”など、
駄目だしを言いながら黙々と詰め込んで奇麗に全部入ってしまう。
なので私は最初から手を出さないで巨大なスーツケース2つの横に、
2か月分の着替えやお土産や生理用ナプキンや本やら辞書やら、
まるで嫌がらせかのようにごちゃ混ぜに積みあげておいといた。
”生理用ナプキンは持っていかないでいいのよ。”と、母は準備をしながら言った。
”絶対にいるやつじゃん!”と答えると、
”日本のナプキンの方が質がいいの、日本製のは全部いいのよ。”との事だったので、
それを聞いていた父が大量の生理用ナプキンをスーツケースから取り出し始めた。
”だいぶ空いたな!じゃあ叔母さんや叔父さんのお土産もっと入れとくから、必ず渡してくれよ。”

2か月の日本での生活の今年の内容はまず、滋賀県に住む父の姉のお家でお世話になりながら中学校の短期留学だった。
アメリカは6月の初めにはもう夏休みに入るが、日本はだいたい7月の下旬からだった為約1カ月半日本の学校を経験する。
私はこれを9歳の時に長野県でも同じ体験をした。
その時は長野県にある父の実家の叔父にお世話になりながら小学校に短期留学をした。
日本の学校生活を経験して5年たつが、溜息しかでなかった。
元々集団生活が苦手な私はアメリカの学校でも抵抗があったのに、
5年前に感じた日本の学校生活はとても不気味だったからだ。
”アメリカからの短期留学生だって!!”
”英語が話せる”
”でも金髪と青い目じゃない”
田舎だったからか、時代だったからか。
登校初日から群がられ、質問責め。
人種が混ざり合うアメリカではありえない光景。
私はまるで動物園の動物になったような気分だった。
しかし一週間もすると熱は一気に冷め、すると
”アメリカから来たからって何?”
”英語が話せるからって偉そうだよね”
手のひら返しをくらったのだ。
いったいここはなんなんだろう。
不思議でしかなかった。
給食の準備も、掃除も自分たちでするのか?
先生はなんだか、神様みたいな扱いだな。
先生が言った事は絶対なのだろうか?
軋む校舎、錆びた蛇口、暗いトイレ。
洋式トイレはなんでないの?泣きたい。
友達って言うほど仲良くなれた子も結局出来なかった。
そりゃそうよね。
アメリカでだって友達はたった一人だけだから。
日本で経験した前回の短期留学を思い出してまた溜息をはいた。

”大丈夫だ。今度は中学校だから、そんな事にはならんだろう”と父は笑ったが、
母は心配そうで、不安げだった。

朝食を済ませ、荷作りも完了し、
私と父は父の車へ荷物を運び、母は自分の車に荷物を乗せて
最後に、神殿へ戻りお参拝をした。
きっとこの時父と母はただただ私の無事を祈ってくれていたのだろう。
私は”飛行機が落ちませんように”と神様にお願いすることで精いっぱいだった。
この時、私が自分の事じゃなくて、他人の事を祈っていたら、
私たち家族の運命は変わっていたかな?
これまででさえ、
私たち家族は沢山試されてきたでしょ。
姉二人のせいで。
あの人たちのせいで、私たちは何を言われてきたか。
私がどんな事を言われ、どんな虐めを受けてきたか。
この時の私は、今以上に家族が可笑しくなるとは思ってなかった。
純粋に神様を信じていた。父のように、神様を愛していた。

2台の車は家を出て、空港へと向かった。